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 チョー二郎夢日記

言うに及ばず、秀吉の嫁さんとして有名である「ねね(おね)さん」。
かつて平野は彼女の知行地4800石の土地であり、わが町平野とは切っても切れぬ縁があるのです。
ホント平野っちゅうところは各時代における権力者達にチョッカイを出される土地柄だったんですよねぇ〜。
信長の矢銭要求に断固拒否の姿勢を取ったり・・・。
(でも結局は同じく自治都市であった堺の商人(茶人) 今井宗久の説得の末、従うんだけど・・・)
秀吉の大坂城築城の際は平野をそっくりそのまま城下町に移そうとした計画に、平野の豪商末吉家が資金を出し、「平野町」(野堂町)を造ることでその場を凌いだとか。
(現在でも“平野町”として残っている)
また家康の時代になると末吉さんの進言により銀座が設けられたり等、ある意味“究極のイッチョカミ”―それが平野の平野たる所以ではないでしょうか。
おっと、「〜時々ねねさん」と題してるので話を戻しましょう。
大坂冬の陣・夏の陣でコテンパンにやられ滅ぼされちゃった豊臣一家ではありましたが「ねねさん」は秀吉の嫁はんにも関わらず家康の手厚い保護を受けたそうです。
その理由には様々な説があるそうで・・・。
秀吉亡き後、彼を神様として祀った「豊国神社」の別当だった梵舜が50年間に渡って記していた日記「梵舜日記」を紐解くと、家康は度々ねねさんを訪れているのだとか。
ここで(あくまでもと念を押した上で)「こんな一説もある」とチョーさん。
後家さんキラー(フェチ?)で有名だった家康は実はねねさんとア〜ンな仲だったのかもしれない・・・なんて。
ねねさんはサル・・・いや秀吉と年齢が一回りも離れており、べっぴんさんだったとも伝えられている事から密かに家康は秀吉存命中から「ねねさん」をターゲットにしていた!?・・・嗚呼昼ドラの世界(笑)
まぁ、これはあくまでも一説なので。
えーこれ以上核心に迫る話となるとR-18、検閲に抵触する恐れがあるので止めておきましょう(笑)
また別の説ではかつての主君秀吉を陰から支え、底辺から天下人と這い上がった道のりを見届けたファーストレディにリスペクトの念を抱き、そのノウハウをご教授頂いていた、なんて説もあるのだとか。
ど助平・・・いやいや文武両道だったと伝えられる家康であればそのような立ち振る舞いも考えられたのかもしれません。
(正に永ちゃんの「成りあがり」をバイブルとするかの如く家康にとっては“ねねさん”がバイブルだったのかも)
サル(秀吉)とタヌキ(家康)とねねさん達の三角関係―真相は闇の中・・・本当に歴史はミステリーでロマンチックよねぇ〜。
各々、諸説あるでしょうが結局のところ“狸に化かされた”で一件落着としませう・・・!?


第6回「サルとタヌキと時々、ねねさん」 2008.10.1
チョーさん直筆によるサル(秀吉)とねねさんの系図
チョーさん直筆によるサル(秀吉)とねねさんの系図。
ホント色んな諸説があるので正確なところは謎のまま・・・。

   
約255年前(寛延時代)の大坂の地図
(複製)。
「知人宅の蔵から発見された時、
慌ててコピーしたなぁ〜」とはチョーさん。
チョーさんの手の幅にあたる部分が
上町台地だそうだ。
向かって左(手側)が北、右側(手前)
が南。
   
大坂城近辺の様子。
大坂城の南側、上町台地上に「北平野丁」
と「野堂町」という記述がっ!
更に南側には「四天王寺」が見て取れます。
   
更に拡大!ズームイン!! 大坂城から西南方向にある「道頓堀」。
(ちゃんと“日本橋”も描かれているのがわかります)
   
大坂城の西側スグにある「東横堀」には
「平野橋(ハシ)」が架けられ、
その一帯には「平野町」があった。
「道頓堀」に架かる「心斎橋」が明記され、
その西側、現在の御堂筋を東西で挟む
カタチで「北勘四郎丁」と「南勘四郎丁」があった。
因みに町名の由来は“末吉勘四郎”から
名付けられたもの。
   
現在の四ツ橋筋と長堀通の交差点
北側スグ辺りだろうか。
「孫左衛門丁」こちらは“末吉孫左衛門”
から名付けられたそうだ。
「大坂御蔵屋敷所附」とあり、地図上に
記された全国諸藩の蔵屋敷の位置を
“いろは〜”記号で表し、その石高ととも
に明記した一欄。
写真は平野とはじぇんじぇ〜ん関係ありま
せんが、藝州廣島(現在の広島県)の石高
が示されております・・・。
   
これは「大坂の陣」における陣営
を描いたもの(複製)
ハッキリいって本文は草書体で書かれ
ているために殆ど読めません!
   
この戦では平野も戦場の舞台となり
平野の地は焦土と化してしまう事に・・・。
かろうじて読み取れる「加賀守〜討捕首三千弐〜」
という記述。
誰がどんだけの首を討ち取ったかという事
なんだろうけど・・・こんな報告(情報)は断じて
要りません!!
この戦で手柄欲しさに何の罪も無い町人
や民衆が老若男女問わず虐殺され、
討ち取った首を敵の首として計上する
“やらせ”が横行したそうだ。
いつの時代も戦争というヤツは人を人でなくし
てしまう・・・犠牲者の全ての人々に対して南無・・・。
次回は「痒いトコに手が届く!?大阪・平野 あー、カイー部(アーカイブ)」(何のこっちゃ!)
と題して、まつやさんで見つけた懐かしの写真、珍しい写真等をチョーさんご自身に解説して頂きます。
どうぞ次回もお楽しみに!!
平野映像資料館 TEL.6791-0720 平野本町3-8-1 ※開館日は毎月第4日曜日(PM1:00〜4:00)
▼ これまでの「チョー二郎夢日記」▼

第1回 「黒別荘」の巻 2008.1.1

第2回 「朱印船」の巻 2008.2.1


第3回 「含翠堂」の巻 2008.3.1

第4回 「番外編〜其之弐〜」の巻 2008.5.19

第5回 「番外編〜其之参〜」の巻 2008.7.18
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